二月の星のうえ

テイルズが好きです。ほぼネタバレに配慮していない感想です。

【ベルセリア】今作における“名前”の考察。アーサー/アルトリウスの二面性について

今作では、<名前>や<呼び方>がかなり厳密に使い分けられていました。
それが物語を読み解くヒントになると思ったので、考えを整理していきたいと思います。

一番わかりやすいのは、アーサー/アルトリウスです。

ところでこの名前は明らかに『アーサー王物語』からきていますが、Arthur<アーサー>の名の由来となったのがArtorius<アルトリウス>という説や、あるいは単にウェールズ語の綴りに直しただけという説があったりしますが、それ自体の呼び分けにはとくに意味は付与されていません。

しかしベルセリアにおいては、アーサーかアルトリウスかでまったく別の人間を指すものとして機能しています。彼が自分を何と名乗ったかによっても、演じる役割が大きく変わっているのです。

セリカと
出会う前
対魔士アルトリウスとして活動。
セリカと
出会って以降
アルトリウスではなくあえてアーサーと名乗る。 優しい義兄となり、ベルベットたちも彼が大好きになる。
10年前以降
(開門の日)
セリカと生まれる前の子どもを失い、「俺は俺を捨てる」と発言。 アーサーという偽りの役を演じつつ、アルトリウスとしてカノヌシ復活の準備を進める。
3年前以降
(降臨の日)
ベルベットに向かって対魔士アルトリウスと名乗る。
現在 救世主・導師アルトリウスとして活動。

 

他人からの呼び方も、やはり明確に区別されています。
いちばんはっきりと描かれているのが、ベルベットが夢の中でシアリーズと会話した場面です。セリカの姿、シアリーズの姿、声優さんの演技も言葉ごとに入れ替わり、物凄く丁寧に作られています。 

セリカ あの優しかったアーサーが……
シアリーズ 冷酷なアルトリウスに変わってしまった
セリカ アーサーを愛しく想うほど、アルトリウスが許せなくなるんだもの……
シアリーズ あの人を憎んでしまう私はセリカじゃないのよ

セリカ/シアリーズの対比が、アーサー/アルトリウスのそれぞれの面に対応している。
優しいアーサーがアルトリウスに「変わった」のは、セリカの死を境にしているということもよくわかります。

もうひとつ例を。地脈でアルトリウスの記憶を見たあとの、ベルベットの台詞です。 

アーサー義兄さん――そしてラフィは、すべてを捨てて、その悲劇を終わらせようとした。……それが、あの人たちの願いなのね。
でも、だから許せない。あの二人……アルトリウスとカノヌシが。(中略)あのあったかい日々は、あたしたち家族が生きた証だったのよ。だから、どんなに苦しくて悲しくても、あたしは、この”復讐”をやり遂げる。(中略)アルトリウスとカノヌシに伝えなさい。あんたたちは、あたしの大事なものを奪った。絶対に許さないって。

ベルベットとシアリーズの会話に、

「なにをもって“同じ人”というのかしら?姿や記憶が同じでも……」
「そうね。心が変わってしまえば、それはもう同じ人じゃ……」 

というやり取りがあります。
これ、はっきり<同じ人じゃない>と言わないのがまた微妙なところで、どう捉えるかによってだいぶ話が変わってきてしまいます。
シアリーズとセリカは別々の人ですが、まったく無関係とも言い切れず、心に同じ炎を持っている。ラフィとカノヌシについても同様です。
私個人としても、<彼らは別の人だけど、それだけでは割り切れない>としか言いようがないのかなと思います。ここらへんはもう、理屈じゃねえんだよ……って感じです。 

それはひとまず置いておきますが、さて、アーサー義兄さんと対魔士アルトリウスとでは、心が変わってしまっている。ベルベットたちにとっては、ほとんど別の人なのです。
でも彼は誰かの転生体であるわけではないし、別の誰かの記憶をもつわけでもない。彼はアーサーでありアルトリウスであるはずなのに、二つをそれぞれ演じ分けてしまっている。人格が分裂してしまっているんですよ。とくに10年前~3年前の期間は、自分やクラウ家を業魔に差し出したのは村の人たちだと知っていながら、そこそこ親しく付き合ってきている。(しかも村人たちは、また業魔が襲ってきたらベルベットたちを犠牲にしてもいいくらいのことを考えていて、恐らくアルトリウスはそれも見抜いていたでしょう。)祠を調査するのに都合がいいとかいろいろ理由があったとしても、異常です。 

そういう人は伝統的に自己矛盾や自己同一性の破綻により破滅するものですが、アルトリウスは器用に自身の二面性を使い分けます。そうするのが“理”だと信じる<アルトリウス>の方が強力なので、もう一人の<アーサー>も支配できてしまっているのだと思います。

ただ、彼はアーサーでいる時がいちばん幸せだった。本当はアーサーのままでいたかった、でもその日々は奪われてしまったから、そこに在ったアーサーはもういない。だから「俺は俺を捨てる」と言ったし、「あの日からのアーサーは嘘だった」のです。
アルトリウスにとって本当の「俺」はアーサーの方だった。彼がやっと自分のままで幸せになれる場所をみつけたのに、と思うと、やりきれないです。 

ベルベットは、聖寮のおさめる世が、数年前と比べて確かに平和になっていることは理解していました。でも、アルトリウスは殺した。ラフィを殺した。そして「あたしの大事なものを全部――!」と心の中で叫びました。
その「全部」には、アーサー義兄さんのことも含まれているのだと思います。
夢はないの、と聞かれた村娘のベルベットが「特にないわ。ラフィと義兄さんと静かに暮らせれば、それでいいし」と言っていたことを思い出すと、本当に切ない。

シアリーズもベルベットも「大好きだった。あの日々が……」って言ってるんですよね。 

シアリーズ 私の望みも、同じですから。大好きだった。あなたたちと――アーサーと過ごしたあの日々が
ベルベット あたし、大好きだったの。ラフィも、セリカ姉さんも、アーサー義兄さんも、みんな……。だから”あの時”を奪われたことが……あたしを選んでくれなかったことが……悔しいっ!

「あの時」にいたのは、アーサー、セリカ、村娘のベルベット、ラフィですから、もうこの四人はどこにも存在していません。
彼らの心は変わり、アルトリウス、シアリーズ、災禍の顕主、カノヌシになってしまった。

でも、最後はみんな元の自分に戻ったんだなってエンディングを終えて思いました。
善も悪も自己矛盾も抱きしめて生きていくことが、どんな自分でも貫くことが、“君が君らしく生きる”ことに繋がるのかな、と、抱き合って眠る姉弟二人を見て考えていました。 

19世紀の作家にチェスタートンという人がいます。その人の言葉に、「狂人とは理性を失った人のことではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である」というのがあります。
狂人は正気の人間の感情や愛憎を失っているから、それだけ論理的でありうるということです。アルトリウスはまさにこれでした。人間らしい感情を切り捨て、理のためだと自分を偽りその呪縛でさらに自分を追い詰めて。
アルトリウスが最期に呟いた「俺は、ずっと思っていたんだ。死んだのがセリカたちでなく……『お前たちだったらよかったのに』……と……」という言葉には、本当にぞくりと戦慄しました。言葉だけ聞けば、ほんとうに酷い。こんな人と10年以上も過ごしていて、それを幸せな日々だと勘違いしていたなんて、と、ここでベルベットが絶望してもいいくらいの衝撃的な台詞です。

でもなぜか、そこには、本当になぜかわからないけど、アーサー義兄さんの懐かしくて優しい姿が重ねられる気がしました。彼が救世主でも聖人でも悪魔でもなんでもなく、ひとりの人間で、ベルベットの兄で、セリカの夫で父親でもあったのだと思い出させられました。
ベルベットの返答も、アーサーにそう言われて、かえって安心したような、どこか穏やかな声なのがまた……。
アルトリウスのこの台詞があるのとないのでは全然話が違ってしまいます。もう最高のカタルシスである。 

さて、二面性をもつのは別にアルトリウスだけではありません。
ベルベットも、村娘/災禍の顕主とまったく別の顔を持ちます。もちろん素は村娘の方でしたが、彼女が自分を貫き通した結果が災禍の顕主でした。
彼もベルベットも、もとから悪人というわけではありませんでした。自分を偽ったり、解放したりしながら、善と悪のあいだを移動するのです。
このことは、人間はふとしたことで善にも悪にもなる危うい存在である=人間は容易に穢れを生む存在である、という世界観とも一致しています。 

ゼスティリアでは導師側の物語、ベルセリアでは災禍の顕主側の物語、と作品全体で見ても表裏・明暗・白黒と対になるという世界観が共通しているように思います。

人は誰でも、善と悪のどちらにも属さず、なろうと思えばどちらにもなれる。だからこそ強く弱く、愛しい存在なのだということが、作品のテーマとなっているのではないでしょうか。 

マギルゥの台詞に、「名前というものは、己が何者かを考えるときに、必要なものなんじゃ。名を与えられ、自分が他の誰でもない自分だと気づき、この身体の中にある形のない心が動き出すのじゃ。坊の心を最初に転がしたのはお主じゃ。偶然とはいえ、坊を人形から生き物にしたんじゃよ」というのがありました。ライフィセットの”名前”についても、またあとで考えていきたいと思います。