二月の星のうえ

テイルズが好きです。ほぼネタバレに配慮していない個人的な感想です。

【TOZX#20】ゼスティリアザクロスでとうとうドラゴンが浄化された(アニメ21話感想)

2/26放送のテイルズ オブ ゼスティリア ザ クロス #20「浄化」をご覧になったでしょうか。
Z-Bシリーズの禁忌とも言ってよい設定をとうとうぶち破った物凄い回でした。
ベルセリアにもかなり関係のある話なので、整理していきます。

なお、ゲーム版ゼスティリア・ベルセリアのエンディングまでのネタバレが大量に含まれているので未プレイの方はご注意ください。

■#20 浄化
アリーシャから救援要請を受けたスレイはレディレイクへ向かう。
レディレイクを襲う竜巻の正体はドラゴン。しかし、これまでドラゴンを浄化できた導師は存在していない……。

パラダイムの転換

何度も書いていますが、ドラゴンは絶対に浄化できないし、浄化できてはいけない存在でした。
ライフィセットはドラゴンになる(もう戻れない)ことを誓約に力を手に入れた。ドラゴンになったアイゼンは殺すしかなかったから殺した。
「ドラゴンは浄化できない」という設定を覆したら、それらにまつわるこれまでの迷いや決断が無駄になってしまうから。

ところが先々週のエピソード18で、死んだドラゴンの穢れを祓うことに成功し、そして、今週、ついにスレイはドラゴンを生きたまま浄化してしまった。

レディレイクへ向かう道中で、スレイはこんなことを言った。

「ドラゴンは浄化できない。そう、エドナもザビーダもライラも言った。でもそれはドラゴンを浄化できないんじゃなくて、ドラゴンの穢れを受け止められる導師がいなかったから、なんだと思う」

スレイはなんだか当たり前のように言ったけれど、この瞬間、天族も人間も、演者も観客も世界のすべてを巻き込んだパラダイムの転換が行われたんだと思う。

ベルセリア、ゼスティリアの設定資料集はどちらも「ドラゴンは浄化できないので殺すしかない」と明記されている。
ドラゴンは実体化し霊応力のない人間にも見えるようになる。つまり、顕現するだけで世界の理を飛び越えるほどの力を持つのだ。それは一度世界の理を書き換えたマオテラスの炎でも浄化できない、天界天族の最強の呪い。いわばこのゲームのルールなのです。
それを、スレイは飛び越えた。これはほとんどチートである。

「いままでの導師が出来なかっただけなんじゃ?」と考えること自体、今まで誰もしてこなかったことなので、この発言で決定的にゲーム版から分岐した感じがしました。

けれどこれは大袈裟に言えば過去の導師たちへの冒涜にあたるかもしれない。ゲームが固く守り、私達が信じ続けてきたことが揺らいでしまいかねない。ザビーダやアイゼンの気持ちはどうなるんだろう、とちょっと心配にもなる。のでこのあたりは後述します。

なぜ浄化できたか

今回ドラゴンを浄化できた要因、ゲームと異なる点がなんなのか、ということですが、ゼクロスで積み上げられた次のような状況設定が挙げられると思います。

・アリーシャ、ロゼの二人が同時に従士となっている。
・従士契約のリスクの改変。(導師の受け止める穢れの一部を引き受けられる。導師が死ねば従士も死ぬ。)
・浄化とは穢れを受け止める行為である。→だから、それを受け止められればドラゴンでも浄化できる。

とくに、従士が直接的に浄化を手伝えるようになったこと、導師を支える仲間がいたことが重要だったと思う。
もし受け止めきれなかったら俺は死ぬ、とスレイは言いました。そして彼が死ねば従士となっているアリーシャとロゼも死んでしまう。
そんなリスクを冒して戦うのはとてつもない恐怖です。なんといってもこれまでの成功率は0%なのだから。状況は絶望的。

なのに、スレイはあっけらかんと「でも俺にはみんながいる」と言えてしまった。
みんながいるから死ぬのが怖い。でもみんながいるから戦える。誰もできなかったことも出来るはず。なんて熱い展開なんだ。すごい。

しかし彼らがそう思えるようになったのは、突拍子がないということはなく、ちゃんと「死んだドラゴンを浄化した」というエピソード18の実績があったから。
飛び越えるのでなく、一歩ずつ成長していっている。これも重要なことだと思う。

つまり、設定の矛盾や改変とか過去がふがいなかったわけではなく、スレイもその周りの人も世界もただ成長し、自然と超えたということなのだと思った。 

さらにメタ的に言えば、
toz(2015年)→浄化できない、アイゼン殺す
tob(2016年)→浄化できない、テオドラ殺す
tozx(2017年)→やればできた

このプロセスがすごい。
ゼスティリアのゲームからやってる人たちにとっては、喜ばしいような、なぜかショックなような、信じられないという気持ちもあったと思う。

「ドラゴンを浄化しやがった……マジかよ」

このザビーダのセリフと、我々が完全にシンクロするのがすごい。
何度やり直しても絶対にアイゼンを殺さなくてはいけない世界線から、やっと抜け出せたような。「ドラゴンを殺さない」という選択肢が現れるまで、一体何周したんだよって感じ。

なんで教会でドラゴンが死んでたのかとかよくわからん部分はあるけど、もうこまけえことはどうでもいい。
彼らのお陰で、この世界は前進する世界だったとわかった。
ベルセリアでは人の心ごとリセットするしかなかった穢れを浄化できるようになり、それでも浄化できなかったドラゴンを、ついに浄化できるようになったのだから。

ただ、ドラゴン浄化までの道のりに関しては、世界構造を書き換えるというテイルズ的なラストシーンの趣とは少し異なる気がする。
すべてを引き受けて眠ったり、自己を世界の柱としたわけでもない。
仲間と力を合わせて、かつての人々や自分一人ではできなかったことを達成した。いわばその程度の出来事なんだと思う。そういう小さな積み重ねの一部に過ぎない。「こんなことで世界を救えると思ったら大間違いだ」とサイモンがつっこむわけだ。けれども、あと少しなのにどうしてもできなかった、どんなにレベルを上げても到達できなかったその壁を超えたことが、どれほど希望になったか。
すごい回だった。

後悔は消えるのか

ただ気になるのは、恐らくこの世界線でもドラゴン化したテオドラは殺されていて、その経緯があってザビーダはアイゼンがドラゴン化したら殺す約束をして、それが彼らの流儀だと1000年間信じていた、という歴史の重さ。

ラストのザビーダの表情は、まだ事態をうまく呑み込めていない感じがした。そも、受け止めたら、何もかもが変わってしまう。もしこれがあの時出来ていれば、という後悔に耐えられるのだろうか。
正直私たちでさえ、ドラゴンを浄化できたという事実は易々と受け入れられるようなものではなく、なんとなくザビーダたちが報われないような気だってする。

でも、それと似たような話がベルセリアにあった。
ライフィセットがオメガエリクシールをつくるサブイベントである。
これはラフィが十二歳病であることが判明しているかどうかの時期によって、スキットの内容を微妙に変えるほど丁寧に作られていました。

最後の素材がみつからないという状況にあっても「あきらめたくない」と言うフィーのひたむきさをベルベットが厳しく励ましました。

「だったら探せばいい。迷う必要なんかないわ」
「失ってからでは遅いのよ。どんなに謝っても。どんなに後悔しても。後悔は思い出になんかならない。終わらない悪夢に変わるだけよ」
「全力でつかまえて握りしめなさい」

そしてオメガエリクシールを手に入れて少年を救えたとき、彼女は、最後まで希望を手放さなかったフィーに「あんたなら大丈夫よ。なにかを失っても、きっと」と微笑みかける。

もし、十二歳病の特効薬であるオメガエリクシールの存在をもっとはやく知っていたら。
もし、ラフィが十二歳病だったと気付いてあげられていたら。
もし、この薬をラフィにつかってあげられたら。
ベルベットはそうやってただ過去を恨み今を妬むだけでもよかった。でも彼女は「それでも後悔は消えない……ううん、消したくないの」と言う。忘れたら、ラフィや自分のしてきたことが全部なくなってしまうから。そして、また「失う」場面を見てしまうかもしれないのに、フィーを励まし見守った。 

自分の成せなかったことをやり遂げられてしまうのは、自分の過ちや後悔を直視しなければいけないから、きっと怖いことだ。
でも希望を捨てない誰かの姿に、奮い立ち、救われることもあると思う。

ザビーダやアイゼンは、受け入れられるだろうか? 過去の自分を後悔するだろうか? 彼らの約束が無意味ではなかったと思えるだろうか?
ドラゴンを浄化できたこと自体は、とっても素晴らしいことなのに、素直に呑み込めないのもまた風情がある。彼らそれぞれの人生やドラマがあって、空虚さも美しさも綯い交ぜにしてそれを抱き締めているように感じる。

もうこまけえことはいいんだよって感じですが、浄化されたドラゴンのもとになった天族がいたはずですが、それはどうなったんだろう。
一緒に消滅したのか……? 浄化しても、ドラゴン化を解除しもとの姿に戻せるわけではないのだろうか。
ピンピンしてるとこまではいかなくても、エドナとアイゼンが一言かわせれば、それで十分だとは思う。でもそれなら浄化と殺すことの違いはなんだろう。そのあたりをしっかり描写してくれたら、もう思い残すことはありません。

さあ、あとはアリーシャが神依するだけだ!!!!!!!

テイルズ オブ ベルセリア コミックアンソロジー VOL.2 (DNAメディアコミックス)

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