二月の星のうえ

テイルズが好きです。ほぼネタバレに配慮していない個人的な感想です。

【ベルセリア】リンゴ、櫛、羅針盤についての考察。愛を分け与えるという循環

ベルセリア公式サイトにて「”物語”を語る上で、鍵となるもの」として、羅針盤・櫛・リンゴが挙げられているとおり、これらのモチーフがストーリー中に何度も登場します。
注意して見ていくと、それぞれが形を変えながら、人から人へ手渡されるようにして循環していることがわかります。

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簡単にいうと、セリカ→アーサー→ラフィ→ベルベット→フィー→ベルベット→フィーの流れで、リンゴ・櫛・羅針盤が渡されていくのです。

リンゴで始まって、他のイメージを経て、リンゴで終わっている。しかも3つとも壊れるか食べるかして、その役目を終えている。循環はフィーでいったん閉じて、今度は新しい聖主としてマオテラスから世界へ愛が分け与えられて、新しい秩序が始まっていく。
ストーリーの流れとこれらの「モノを与える行為」の循環が対応しているのが、とても面白いところだと思います。

上記は常に<リンゴ(羅針盤・櫛)を渡した人が死に、それを受け取った人が生き延びる>という構図になっています。
果たして、リンゴを与えることは、自分の生命を分け与えるというメタファーなのでしょうか?

聖書には、「互いに愛し合いましょう」とか「分け与えよ」という言葉が頻出します。誰かに自分の何かを惜しみなく分け与えることは愛であり、そして愛をもって分け与えた場合、それは「与えた分だけ無くなる」ということにはならず、誰かが返してくれるということになります。
「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます」ということなのです。
ベルセリアでは、この霊的法則が繰り返し行われている。
なお、この愛は誰から始まったものかというと、「神さまから」ということになりますので、最初に分け与えることを始めたセリカが、この場合は神の愛をもつ人、母なる存在ということになるかもしれません。
実際、小さい頃に親を失くしたベルベットやラフィにとっては、セリカが母親のようなものでした。そして父親の役割を担ったのは、いうまでもなくアーサーです。
そうなると、父殺し、母殺しとかの問題も見えてくると思いますがここでは割愛。

セリカがアーサーにリンゴを与え、「お腹がすくのは生きている証拠」だと教える。そしてアーサーは、ベルベットとラフィにリンゴを与え、「生きる勇気をくれるお守り」だと教える。
セリカもまた誰かから分け与えられたのでは?とも思えますが、このとき、アーサーが「セリカが魔法をかけてくれたリンゴ」と言っているので、クラウ家の両親が完全に不在であることからも考えて、このリンゴを巡る循環はセリカから始まっているとしてよさそうです。

それから7年経ち、ベルベットはラフィからを受け取ります。ラフィが本当に欲しかったのは羅針盤だったのに、彼は自分ではなく「お姉ちゃんへの愛」を選んだのでした。
そして、ベルベットがフィーに名前羅針盤を与え、「自分は生きている」ということを教えた。
羅針盤というモチーフについて。これはどこかへ向かうために人間が発明したものなので、意思のない者には不要です。行き先は自分が決めるという意思表示であり、自分の舵は自分で取る、ということをそのまま表すものです。

そして愛を受けて成長したフィーは、地脈で「ベルベットは僕に名前をくれた羅針盤をもたせてくれた!僕が生きてるんだって教えてくれた!だから僕は、僕のためにベルベットを守るんだ!」と言いました。その強さがベルベットを救い、フィーからを分け与えられたベルベットはもう一度生きることを選んだ。(実際、フィーの腕は少し喰われており、生命を分け与えたことに等しい。)
なお、このとき、ベルベットはを落としたことにも気付かないほど動揺していましたが、その櫛を拾ったフィーがあとで返していると思われます。(=リンゴの循環)

そして、カノヌシとの戦いで、フィーは羅針盤を盾にします。これは、羅針盤が好きだったラフィの記憶を呼び起こさせ、混乱させて隙をつくる、という意味もありましたが、本当は「羅針盤がなくても、進む方向は自分で決められると言えるほどに成長した」ということを表しているのだと思います。

ベルベットも、最後のカノヌシとの戦いで、弟がくれたを盾にします。羅針盤のときと同じく、カノヌシが動揺しますが、これは「過去との決別。導師と聖主を殺して復讐をやり遂げる」という意思の表れでしょうか。
また、カノヌシと一緒に眠ることを決意していたベルベットには、もう誰も髪を梳いてくれませんから、櫛が不要になったということでもあるのかな。

そしてベルベットは最後にフィーへリンゴを与え、「ええ、死になさい。食べて、生きて――したいことを全部やった後に」と言う。セリカがアーサーに分け与えたのと同じように、彼女もまた、生きるための食糧と、生きて欲しいと願う愛情を分け与えたのでした。

よって、リンゴを分け与えた人が死んでしまう、というのは表面的な話で、その本質は、生命や勇気、愛を分け与える行為だということになると思います。

愛による死は終わりではなく、むしろそこからまた始まる。その愛を知った人もまた、誰かに分け与える。そうしてめぐりめぐって、「与える者は失う」のではなく「与える者は受ける」という世界になる。
フィーは、セリカから始まったクラウ家の人々の愛情を受け継いだ希望なのです。

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」という言葉が聖書にあります。
至上の愛とはそういうものなのですが、ベルセリアの人々はまさにその愛を循環させている。だからこそ、憎んだり怒ったりしながら、それでも自分の愛したものを信じて生きていく。
「ベルセリアって?」
それは愛を分け与えるお話だと思うのです。

余談ですがこれを書いているときに、アニメ『輪るピングドラム』のことを思い出して、もう一回見たくなりました。